メサベルデ国立公園




忽然と消えた謎の古代民族、アナサジの住居遺跡
メサベルデはコロラド州南西部に位置し面積は211平方km(81平方マイル)、最大標高は2600m。1906年に国立公園に指定、1978年ユネスコ世界文化遺産に登録された。
アメリカ先住民(Native Americans)、インディアンの歴史をかんたんに記すと、ヨーロッパ、アジアに広がった人類は徐々に東に進みベーリング海峡を越えアラスカから南にロッキー山系を伝ってアメリカに達した。ベーリング海峡は氷河期には陸地化しており、それは3万年から1万3千年前の長期に渡る。
モンゴロイドの南アメリカ最南端への到達は1万年前と発表されているから、アメリカの人類史のスタートは今から2万年から1万3千年前頃からと考えられる。
アナサジ(Anasazi)は狩猟採集も行う農耕民族であった。紀元前500年頃には当地の丘陵などの台地で生活し、紀元700年代には


統率された集団として集落を形成した。キバ(Kiva)という宗教儀式の施設をつくり、周辺を区画割りして木造を泥で固めたアドビの家を建てた。
1100年代にはいると建物は石造工法となり、数千人の住居は断崖絶壁に移った。これがメサベルデの遺跡群である。複数階建てで家族ごとに住居出来る集合住宅か団地のようにも見える。200部屋あるクリフパレス、バルコニーハウス等々多くあり、当地に点在する。
しかし1400年前後のある時期に彼らは当地からいっせいに姿を消した。コロラド州のメサベルデにとどまらずユタ、アリゾナ、ニューメキシコ州に住む30万人の先住民もほぼ同じ時期にいなくなった。
不思議なことに遺跡には遺骨は無く、抗争や疫病の跡は見当たらないというから、僕の好奇心はますます高まるのである。

マウントレーニア国立公園



標高4329mの高峰、聖なる山、ティースワーク
マウントレーニア国立公園はワシントン州の北西部、シアトルから60マイルの距離に位置し、面積は953平方km(368平方マイル)。1899年にアメリカ5番目の国立公園に指定された。
太平洋から吹きつける湿度を含んだ風がレーニアの山岳に衝突し猛烈な雪を降らせる。この雪が数十もの巨大な氷河を形成した。エドモンズ氷河はアメリカ本土で最大面積、カーボン氷河はアメリカ本土で最大体積である。
レーニアの南斜面、パラダイスは夏季には高山植物が咲き乱れる景観地区(写真2-4)。しかし冬になると様相は一変、地球上でもっとも降雪量の多い地域となる。1971年冬、28.5mの世界最高積雪を記録した。
マウントレーニアは地球内部から吹き上がる火と水から出来た勇壮な独立峯。大地のエネルギーを脈々とたたえ、麓は強いパワー


スポットで満たされる。神々しいレーニアは数千年以上前からインディアンと霊的世界観で結ばれていた。
マウントレーニアの東側を流れるホワイト川流域には、かつてピュヤラップ(Puyallup)族、マックルシュート(Muckleshoot)族、ニスクォーリ(Nisqually族)、ヤカマ(Yakama)族などが居住し、彼らは聖なる山をティースワーク(Ti ‘ Swaq)と呼んだ。
20世紀後半からマウントレーニアをインディアンの言葉に戻す運動が起きている。2010年、ワシントン州知事はピュヤラップ族と調印し名称変更を具体化する可能性を示唆した。
国立公園内のロッジ、Paradise Innは1917年開業。マウントレーニア国立公園を象徴する歴史的木造建築物である。石造暖炉を設えたロビー、ウッディで温かみのあるダイニングの内装、料理も素晴らしい(写真-6)。2008年にリノベーションされ耐震化工事などが施された。

マウントラシュモア国立メモリアル公園



聖地に刻まれたふたつの文化
マウントラシュモアはサウスダコタ州ブラックヒルズ国立森林公園にあり、1925年に国立メモリアルに指定された。標高1745mのラシュモア山の花崗岩にアメリカ建国と発展を象徴する4人の大統領の顔が彫られている(写真1-2)。
ワシントンは独立戦争を指揮しイギリス軍に勝利、初代大統領となった。ジェファーソンはフランスからルイジアナを買収し領土を倍増、リンカーンは南北戦争で南軍を破り、ルーズベルトはノーベル平和賞を受賞した。
このモニュメントはアメリカ政府の主導により彫刻家ガットズン・ボーグラムが1927年から14年間かけて建造した。ただしラシュモア山は古くからインディアンの聖地とされており設立以来スー族による抗議活動が頻繁に起きている。
一方、当地から10マイル西方の岩壁にスー族の英雄クレイジー・

ホース・モニュメント(写真3-5)の彫像づくりがコルチャック・ジオルコウスキーにより1947年から進められている。40年をかけ顔の部分がやっと出来あがったが、数十年後、馬に跨る全身像が完成すると世界最大の彫刻になるという。
このふたつの彫像に異論を唱える人は多い。ラシュモアは当然のことクレイジー・ホース像にも反対するスー族の人もいる。美しい大自然を切り刻み、対立するふたつの文化の英雄を競い合わせることにたしかに価値はないのかも知れない。しかしこのプロジェクトはすでに始まっていて、今さら後戻りは出来ない。いっそのこと政府予算で一気に完成させるという案はいかがだろうか。
ケビン・コスナーは学生時代にクレイジー・ホース像を見て感動、のちに「ダンス・ウィズ・ウルブス」を制作しスー族の文化を世界中に知らしめた。合わせてアメリカ経済にも貢献したのだから、それは両者にとって大いに価値があったのだと思う。

マード



1880’s Town、西部開拓時代の町
マードはサウスダコタ州中部ジョーンズ郡最大の町、東方にミズーリ川が流れる。郡の面積は2517平方km(972平方マイル)。東京都より広い面積に人口が1000人、気が遠くなるほど人口密度が低い典型的な過疎の地である。
サウスダコタ州はインディアンの州としても知られている。スー族の言葉「Dakota(仲間)」が州名となった。紀元前にはパレオ・インディアンが住み、1800年頃にはスー族の居住地となった。そのIndian Reservationにヨーロッパ入植者の侵入が相次ぎ、西部開拓時代には白人とインディアンの抗争が頻発した。
そんな時代の町並みを再現したのが1880’s Townである。アメリカ各地から西部開拓時代の古い建造物を集めて町をつくったという。ちなみに1880年は日本では明治13年、鹿鳴館が完成したのは1883年。

僕たち夫婦は前夜にマードの町に宿泊し、そこから出掛けた。インターステイツ90号を西に30マイル、30分の距離だ。
1880’s Townの創始者 Richard Hullingerは1969年に14エーカーの土地を購入、3年後に80エーカーを買い足し、町づくりを開始した。Dakota Hotelはドラパー、教会はディクソン、Wells Fargo銀行と電報局はゲティスバーグから移築された。
当時の市長の執務室もありデスク周りのレトロな文房具にも感動。ほかに鉄道駅、保安官事務所、散髪屋、レストラン、バーなどもあり、本当に1880年代に迷い込んだようなうれしい気分になった。
今にも雨が降りそうな重苦しい空、風がピュ―ピュ―と吹き、舞い上がる砂埃。バーの扉がガタンガタンと開閉する、というような西部劇日和のシチュエーションを期待していたが、案に相違して清々しく気持ちのよい晴天だった。

ホワイトサンズ国立モニュメント




見渡す限り、真っ白な砂の雪景色
ホワイトサンズ国立モニュメントはニューメキシコ州南部、面積は710平方km(275平方マイル)、最大標高は1218m。東にサクラメント山脈、グアダルーペ山脈、西をサンアンドレアス山脈に囲まれたトウラロサ盆地にあり、1933年に国立モニュメントに指定された。国境の町、エルパソから100マイルの距離。
白砂の海岸は世界各地にあるが、実際には白褐色の石英砂が強い太陽に反射して白く見える。しかしホワイトサンズの砂は手に取ってじっくり見ても正真正銘の純白。この砂はアラバスター(雪花石膏)という結晶物で、数億年前に海洋だった当地域が大陸移動と土地隆起、太陽熱と複数回に渡る氷河期を経て石灰岩、石膏、塩分の堆積物が凝縮したという。写真で見ると雪景色のようにも見えるがここはアメリカ最南端、全然寒くないし、真っ白な砂丘風景は美しいというより不思議世界という感が強い。



不思議つながりで、余談。ホワイトサンズの東にロズウェルという町がある。ロズウェル事件(Roswell UFO Incident)で一躍世界中に名が知られた町である。その事件とは空飛ぶ円盤が墜落し、残がいをアメリカ空軍が回収したという前代未聞の騒ぎ。
出来事はいったん収束したが、のちの1978年にJesse Marcelという空軍少佐がテレビのインタビューで円盤に搭乗していた異星人の遺体の存在について爆弾発言し、再度大騒動となった。数多いUFOとの遭遇事件のなかで、もっとも信憑性が高い事例だと言われている。
元々ニューメキシコ州南部ではUFOの目撃談が多いという。ホワイトサンズにはアメリカ空軍の核ミサイルのテスト基地があり、それが関係しているという説もあるが、真偽は不明。
期待はあったが、ともかく僕たち夫婦は空飛ぶ円盤を見ることは出来なかった。

ホットスプリングス国立公園



スパの始祖バスハウス、伝統的な温泉療養地
ホットスプリングス国立公園はアーカンソー州中央部に位置し、面積22平方km(9平方マイル)は国立公園では最小。最大標高は317m。1921年に国立公園に指定された。
源泉地帯となるノースマウンテン、ウエストマウンテンおよびその谷間のバスハウス・ロウが公園エリアだが、商業施設やホテルが立ち並ぶ景観はアメリカ国立公園としてはきわめて異質。
当地は数千年に渡りインディアンが居住し温泉は身体保養に活用されていた。1541年にスペイン人によって発見され、17世紀にフランス人が入植した。
1875年にはじめての高級ホテル、アーリントン(Arlington)が開業(写真-6)、同年にホットスプリングス鉄道も開通し温泉観光地として徐々に発展してゆく。
しかしバスハウスの入湯者数は1946年の64万人をピークに徐々

に減少しだす。長らく滞在し療養するバスハウスは現代生活には向かない。洗練されたスパリゾートの普及、医学の進歩も遠因。そのせいか町全体の寂れた感じは否めない。アーリントンに2泊したが老朽化がひどくホテルとしての基本機能は無いに等しかった。ホットスプリングスの南方のハミルトン湖周辺には近代的なリゾート施設が多くあり、滞在はこちらがお薦め(写真-1)。
当地出身の有名人がいる。ビル・クリントン42代大統領だ。小学生から高校卒業まで育った家はバスハウス・ロウから車で5分のところにある(写真-7)。
少年期は決して恵まれた境遇ではなかったというがホットスプリングス高校を卒業後、三つの大学を経て32歳の若さで州知事、その後の大出世は記すまでもない。
小高い丘に建つその家の土地はパワースポットかと思えるほど強い気力に満ちていた。

ペピン



「大草原の小さな家」、ローラ・インガルスの生まれ故郷
ペピンはアメリカ中北部、ウィスコンシン州西部に位置し面積は645平方km(249平方マイル)、町の南端をミシシッピ川が流れる。ミズーリ州セントルイスから一路北に500マイル、真っ青な空に映える濃い緑のトウモロコシ畑。山はまったく見当たらない。その風景はイリノイ州、アイオワ州を過ぎウィスコンシン州に入ってもいっこうに変わらない。
アメリカ中北部の平野はほんとうに広い。そのトウモロコシ畑の真ん中にぺピンという小さな町はあった。
南北戦争さなかの1863年にイングランド移民のチャールズ・インガルスとその妻キャロラインは当地ぺピンの森のなかに小さな丸太小屋(写真-1)を建て、4年後にローラが生まれた。後にアメリカを代表する作家となるローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)である。

西部開拓を夢見る両親と共にローラはアメリカ各地を転々とし、貧しさと数々の苦難の日々を過ごしながらもアメリカ大自然のなかでたくましく生きてゆく。
60歳を過ぎた晩年に娘の勧めで大自然の美しさや子供の頃の暮らしを綴った自伝記を書き始め、1932年に刊行された「大きな森の小さな家(Little house in the Big Woods)」が世界的なベストセラーとなる。その後、「大草原の小さな家(Little House on the Prairie)」をはじめ数々の名作を生みだした。
映画で見る西部開拓史はガンマンやカウボーイが頻繁に登場し実に男性的で勇ましい。しかし実際にはローラの家族のように素朴で堅実な開拓の歴史があったに違いない。僕たち夫婦はローラが暮らしたアメリカ中北部の田舎町を訪ね歩き、ローラの足跡を辿り、その生活をじかに感じてみたいと思った。ウォルナットグローブ、デ・スメットについては、それぞれの頁に記す。

ペトログリフ国立モニュメント



古代人アナサジのビジュアルメッセージ
ペトログリフ国立モニュメントはニューメキシコ州中央部に位置し、アルバカーキからリオグランデ川を挟み西に10マイルの距離、面積は29平方km(11平方マイル)。
当地には24,000点に上る世界最大数の先史時代のペトログリフと考古学上の重要な史跡、及び5箇所に渡る火山噴石孔があり、それらの文化、自然遺産を合わせて1990年に国立モニュメントに指定された。
ペトログリフとは岩石や洞窟内部に描かれた意匠や絵文字彫刻の総称。先住民アナサジが紀元前1200年から紀元1400年頃に遺したものと考えられている。この絵文字を順次見て回ったがテーマは擬人化した動物か、意味不明な幾何学的な図形が多い。二足歩行のカメのような生き物はいったい何を意味しているのだろうか。アナサジは狩猟採集と農耕の双方を営み暮らしてきたが、

いずれにしても感受性にすぐれた平和主義の部族であったのだろう。多くの絵文字をじかに見てあらためてそう思った。
アナサジは15世紀のある時期にアメリカからいっせいに姿を消した謎の古代人。プエブロの先祖(Ancient Pueblo People)だという説もあるが、正確にはわからない。現在、プエブロ族は19の種族、3万5千人がアメリカ政府により公認されていて、アコマ、ズニ、タオス、ホピなどアドビ(Adobe)煉瓦で造られた集落に住む。
ちなみに先史以来アメリカには900以上のインディアン部族が居住していたが、彼らは一様に自尊心が高く、
それぞれが固有の文化と言語を持ち、互いを相容れなかった。数千年に渡り、部族間抗争を繰り返してきたというが、もしアメリカのインディアン部族が16世紀の時点で統一されていたら、ヨーロッパ人によるアメリカ征服の歴史は変わっていただろう。

ブラックヒルズ国立森林公園

グレート・スー・ネイション、偉大なるスー族の聖地

ブラックヒルズはサウスダコタ州西部からワイオミング州北東部に跨る4850平方km(1875平方マイル)の広大な国立森林公園。最大標高はハーニー山の2206m。
明るい草色の丘陵地帯にポンデローサ松がくっきり黒く映える風景はまさにブラックヒルズと呼ぶにふさわしい。草原、美しい森と湖、バイソン、ビッグホーンシープなど多くの野生動物が棲む大自然の恵みに溢れた素晴らしい地域だ。
しかしブラックヒルズには複雑なアメリカの歴史がある。1800年以降、ヨーロッパからの入植者は西へ西へと領土を広げた。そのフロンティアの障害となったのは先住民だった。
アメリカ政府は指定地にインディアンを強制移住させる政策を推進した。Indian Reservationである。政府はブラックヒルズを居留地とし、1868年ララミー砦条約により、「白人の通過、居住を

許さない、Great Sioux Nation」と明文化した。
ハナシはこれで終わらない。条約締結僅か6年後の1874年、ブラックヒルズに莫大な金鉱脈が発見されアメリカ軍は当地に侵攻。この条約は一方的に破棄された。インディアン迫害史に残るブラックヒルズ戦争である。
この争いはその後も続き、百数十年を経た1980年、ついに最高裁法廷で決着。アメリカによる当地の没収は条約違反とする判決が下された。政府は賠償金として1億ドル余りを提示したが、スー族はこれを拒否、あくまでも聖地ブラックヒルズの自治権の復活を主張している。
実は当地の地下には5千トン、数千億ドル相当のウラン鉱石の埋蔵が判明していて、すでに大手資本により開発は始まっている。
経済的発展を願う人々、民族の伝統文化を尊ぶ人々。互いの価値観の溝はそう簡単には埋まらない。

ブラウンカウンティ



インディアナ、インディアンの土地という名の州
ブラウンカウンティ州立公園はアメリカ中西部インディアナ州中央部に位置し面積は64平方km(25平方マイル)、最大標高は322m。1929年にインディアナ州立公園に指定された。州都インディアナポリスから南に30マイルの距離。
Abe Martin Lodgeという公園内ロッジがあるが、僕たち夫婦は公園の北側にあるBrown County Innに宿泊した。木造のカントリー風でレストランの雰囲気もナチュラルで好みのスタイルだ。
ブラウンカウンティは厳寒の冬、蒸し暑い夏と四季のメリハリが明快。とりわけ秋の紅葉が素晴らしいという、日本に似た気候で丘陵と谷が連続する地形も日本によくある風景だ。
当地は1818年のセントマリー条約によりアメリカがインディアン、デラウェア族から取得した土地である。インディアナの語源は「インディアンの土地」で、その名の通りミシシッピ川流域

でのインディアンの歴史は古く、紀元前8000年頃に遡る。
アジアから氷河伝いにベーリング海峡を渡り北アメリカ大陸に到達したインディアンの祖先となるモンゴロイドは移動を繰り返す狩猟民族であり、そのため彼らはアメリカ各地に広がっていった。紀元前1000年頃からは農耕系インディアンが当地に定着した。小さな集落を形成し土器を作りトウモロコシを栽培するアデナ文化、ホープウェル文化である。
そして9世紀からミシシッピ文化が隆盛した。少数の権力者が多くの民を治める首長制国家でマウンド(Mound)と呼ばれるピラミッドに似た巨大構造物をミシシッピ流域に数多く建設した。しかし統率されたミシシッピ文化は16世紀に衰退した。
数多くのインディアン部族が対立し抗争を繰り返していた17世紀はアメリカの植民地化が始まったヨーロッパ人にとって都合のよい状況だった。